しかし今度は「不調なわたし」になったことに素早く気づけるようになっていました。
一度「ラクな身体」を経験すると本来の自分の身体や戻る場所を理解しているので、「不調なわたし」になっていることに気づき、その「不調」が巻き起こす様々な問題を客観的に見ることができるようになるからです。
今のわたしに合った学びはないかと探しているときに、近所の公共施設で行われているヨガ教室のチラシが目に入りました。

初めて参加したヨガ教室は、肩こりや腰痛、不調を改善したい人、疲れている人、赤ちゃん連れの人、仲間作りがしたい人、おしゃべりがしたい人、それぞれが自由なスタンスで参加していました。
ヨガクラスに参加して衝撃を受けたのは「やりたくない動きはやらなくてよい」「無理をしない」「ヨガで最も難しいポーズは何もしない屍のポーズ」という言葉でした。
先生は「ヨガとは・・・」という理屈や理論をほとんどされませんでした。
「ヨガは難しいことじゃないのよ、わたしはヨガに出会って不調から解放されてて今が一番ハッピーなんです。みなさんにも同じようになってもらいたい」
当時のわたしは極限まで疲れ切っていたのだと思います。ヨガクラスに通い始めて2年間はレッスンの時間ほとんど眠っていました。
ずっと眠っているわたしを誰も起こしたり咎めたりしませんでした。

先生は「眠りたいなら寝ればいいのよ。ヨガの10分の眠りは1時間の眠りと同じと言われています。深い場所の緊張がなくなればそのうち寝ないでレッスンを受けられる時が来るから」その言葉はこれまでの価値観を根底から問われるものでした。
「ちゃんとしなさい」「努力をしなさい」「怠けてはいけない」「立派な人間になりなさい」あれ?正しいと教えられてきたこととは一体何だったのだろうか。
2年間ヨガクラスで眠り続けたことで、おそらく33年間の緊張をそこでほどいたのだと思います。実際に硬い身体がほぐれていくうちに、身体の不調やストレスに悩み苦しんでこだわり続ける自分がゆっくりと緩んでいきました。ヨガはアレクサンダーテクニークよりももっと直接的でなによりも具体的、そして実感が伴うものでした。

わたしの変容の様子をみていた先生から「ヨガの講師が向いていると思うので勉強を続けませんか」と言われました。
アレクサンダーテクニークでの経験もあり、わたしは身体とこころの関係性にとても興味を抱き、講師を目指すというよりはただ純粋にもっと知りたい、学びたい!と感じ、ハートの衝動と好奇心のままに進んでいきました。ヨガのアーサナ(体操)だけではなく伝統的なヨガの概念的、理論、聖典なども学びました。
ヨガやボディワークに夢中になり7年間ほど寸暇を惜しんであちらこちらと学ぶことに奔走する暮らし。いま振り返ってみると子育て、仕事、ヨガ教師の資格取得講座、ヨガ講師の仕事、ヨガの他の学び・・・どこで休んでいたのかわかりません。当時のスケジュール帳は真っ黒でした。

日々ヨガ(体操)を実践して心身が快適なら万事OK、そう信じて休む間もなく動き回っていたわたしは、身体のバランスが徐々に崩れていたことに全く気がつきませんでした。
その後大きな病を経験し、日々の充足感と達成感で根本的な問題を覆い隠しているだけだったことに気づきます。
そして新たな学びに繋がっていくことになります。
本来、本質に近づいていくツールであるはずのヨガを、わたしがずっと抱えていた根本的な問題から目をそらせるためのツールにしてしまっていたのです。